1. 不動産登記法の歴史

    

  ここでは、不動産登記法の簡単な変遷について記載していきたいと思います。
 まず土地は農耕民族である日本人にとって生命線でありましたので、宅地も大事ですが、農地が
 自分達の食い扶持を保つ唯一の生産拠点でありました。よってその生産拠点でもある土地を時の
 権力者に認めて貰う(安堵して貰う)事に武力をもった農民から発展した武士は一番気にしたのです。
 江戸幕府から明治政府となって年貢から固定資産税にする為、土地の私有化を図ります。
 明治4年廃藩置県が実施され次いで明治6年7月28日太政官布告により地租改正条例が布告され
 まして全国一斉に地押調査(その土地は誰のものかを確認)と丈量(測量)が行われ、
 最初の公図(改租図)が出来ました。
 登記法がまだ無く登記簿が有りませんので、土地の所有者へ「地券=土地権利証書」を配って
 「地券台帳」を作成して租税と土地所有者を管理していました。

 ところが無願開墾、無届地目変換等が多発したので、明治17年3月15日太政官布告第7号による
 地租条例を発端として、大蔵省主導により全国規模で再び「地押調査(納税地と納税者の再点検)」
 と測量がおおよそ明治20年から明治23年頃にかけて再度実施され、土地台帳、公図(更正図)は
 その成果品として取りまとめられました。現在の公図のほとんどがこの再測量の時の更正図
 との事です。地租条例では、地目を有租地(宅地、田畑等の第一類 及び 山林、原野等の
 第二類に細分)と免租地に区分、地目変換や開墾(二類地を一類地に変更)等の届出、
 土地丈量の方法、地価の定め方及び地租率(地価の2.5%)の内容が規定されました。
 又、地租条例取扱心得書(明治17年4月5日大蔵省達号外)が発出されており全国的な実地検査手続の
 全国統一が図られる事になりました。この事から地租改正当時の改租図作成当時は、地方により
 改租図の作成方法がバラバラで全国統一されていなかった事が伺えます。

 更正図は、改租図と相違して府県庁の点検を経て作成されていますので、その副本は地元の有力者で
 は無く役所にあるとされています。まだ税務署が無い時代なので、役所で管理しました。
 府県庁には地租台帳、更正図(正本)、改租図(正本)を郡区役所には、地租台帳、地券台帳
 (地租改正当時の分)、戸長役場には、土地台帳、更正図(副本)改租図(副本)が
 備え付けれらました。国税ですが、実際の徴税は戸長役場が行っていましたので、当然副本が
 戸長役場にあったのです。土地台帳は明治政府にとっては地租を徴収する基礎であり、
 土地所有者にとっては自己の不動産の所有権を主張する根拠となるものであったのです。
 戸長役場は明治22年4月施行の市制・町村制が制定され市町村役場と名称変更されました。
 明治22年3月22日に土地台帳制度が創設され同時に土地台帳規則も公布され、市の土地台帳は府県庁に
 町村の土地台帳は島庁郡役所においてそれぞれ備え付けられました。
 土地台帳は再度の地押調査と更正図作成を経て地券台帳を引き継いだとの事です。

 土地台帳とは別に明治19年8月13日に明治政府の法律第1号として登記法が施行された事から土地の
 所有権安堵=登記制度となりそれまでは配られた地券と地券台帳と土地台帳が唯一の所有権証明根拠
 だったものが任意で登記をする事により対抗力(不動産所有権を第三者に主張出来る効果)を得る
 制度となりました。その後明治32年2月24日に登記法が廃止となり不動産登記法(法律第24号)が施行
 されました。明治政府の法律の一番最初が「登記法」との事から、土地安堵の対するその当時の
 国民の関心の高さが伺えます。
 
 土地台帳は、明治35年10月31日に「税務署官制」が制定され税務署が出来た事に伴い、県庁から税務署に
 土地台帳(正本)同附属地図(正本)が引き継がれました。又、国税徴収の補助事務用として
 市町村役場に更正図副本、改租図(副本)は継続して使用されました。
 又、昭和6年4月1日から「地租法」が制定され明治17年3月15日制定の「地租条例」は廃止されました。
 地租条例は、土地価格の%で地租を徴収していたルールから賃貸価格で地租を徴収する方式に
 変わりました。土地台帳そのものが地租条例から地租法にそのまま引き継がれました。
 賃貸価格は税務署が決定していました。

 戦前の日本は欧米に対抗する為に中央集権国家に特化していましたので、現在の様に地方に気を使った
 政策がなされていなかった為、地租(今の固定資産税)も国税でありました。土地台帳法は租税目的で
 あり、不動産登記法は、土地の安堵目的であったので、それぞれに土地の記載が有りました。
 課税の為である土地台帳があった場所は国税なので税務署です。
 ですから土地分筆登記をする時は登記所(裁判所だった)には「土地分筆登記申請」同時に土地台帳も
 分筆する必要がありましたので、確定申告と同じく「土地分筆申告」と云いました。
 登記されていた土地は登記所(裁判所)と土地台帳の管理官庁である税務署との2箇所に対して書類を
 提出する必要があったのです。

 上記の様に登記簿は「登記法」時代は、治安裁判所、戦前の「不動産登記法」時代は、区裁判所が
 登記所として取り扱っていました。戦争に負けて、司法と行政との分離の結果、登記事務は司法事務局が
 取り扱うこととなり、組織変更によって後に法務局が取り扱うことになりました。
 法務局は戦前には無く、裁判所が登記所として業務を行っていたのです。(登記所という名称の
 行政機関は官署としては存在しません。あくまでも登記事務を処理する官庁の登記法上の呼称です。)

 太平洋戦争に日本が連合国側に負けてアメリカが日本が二度と歯向かわない様に
 中央集権国家体制を解体する目的から昭和22年3月31日に旧地方税法が改正され土地台帳法、
 家屋台帳法が施行されそれに伴いそれまで国税であった地租が府県税に改められました。
 土地台帳もそれまでは、地租法による「土地台帳」であったものが土地台帳法による
 「土地台帳」に又引き継がれました。
 その後昭和25年のシャウプ勧告時に固定資産税制度が導入されて府県税であった地租が市町村税
 に更に改められました。これにより登記簿は裁判所から新設された法務局(登記所が裁判所から
 法務局に変わった)に移管されました。その時土地台帳法が一部改正され、土地台帳附属地図は
 それまで単に課税地図だったものが、不動産の権利の客体(対象物)をもあらわす地図(公図)
 と位置付が変わりました。土地台帳は、賃貸価格の調査及び決定を行う為に引き続き(国税では
 無くなったのですが、)税務署が登録管理する事となり、土地台帳と附属地図の副本は、
 市町村役場に備えられました。 

 上記の改正はなされましたが登記された土地は分筆等する時には、法務局と税務署の両方に書類を提出する
 事に変わりは無く土地台帳と登記簿の表題部は、いわば同じものなので、二重行政だとの批判を受けて
 昭和35年に土地台帳法は廃止され、土地登記簿表題部と土地台帳が一元化され新たに
 「表示に関する登記」が登記法に新設されました。
 (表題部は物件を特定する為、当然以前の登記簿から有りました。)
 これで土地台帳法が無くなったので、税務署に分筆等を申告する事が無くなり一元化された登記簿を管理して
 いる法務局に対してのみする様になりました。併用申告制度といって登録免許税を申告と同時に支払った
 時は税務署だけに申告すれば良かったとの事なので実際はほとんどこの制度を利用していたと思われますが
 便利になったと思います。
 その一元化時に登記簿のブック化が同時に行われています。コンピュータ化と同じで一元化業務も大きい
 登記所から実施されて行きましたので、地方法務局は一元化が遅れた為、土地台帳も長い期間の分まで
 ありますし、その時から保存を開始した地積測量図は一元化が早い登記所程、昭和35年に近い時期から
 現在も保管しています。その前の税務署への申告書添付の地積測量図等は、残念ながら廃棄されて
 いますので、本人が保管していない限りは法務局には保管されていません。
 一元化されたと云っても固定資産税課税は市町村が行いますので、現在も市町村に公図と別に課税台帳
 が有り、法務局になされた登記申請内容が市町村の固定資産税課へ税務通知されて課税されています。
 又、未登記物件については固定資産税課が独自に調査して課税しています。
 
 昭和63年に登記簿がコンピュータされる法律が施行され又、大きな登記所から順番にコンピュータ化されて
 いきました。木津法務局で平成16年頃に完了したと思いますからおよそ15年位掛かって完了致しました。
 昭和52年の事務取扱手続準則の一部改正を経て平成5年には不動産登記法の改正が有り、昭和35年に
 土地台帳法が廃止となり法的位置付けを失っていた土地台帳法附属地図(これが公図)を法務局に
 座標を持った地図が備え付けられるまでの暫定的手段としての「地図に準ずる図面」として法的な
 意味づけを持たせましたので、無料であった公図閲覧が(税務署時代は有料か分かりませんが)
 初めて500円掛かる様になりました。
  平成17年に大きな改正が有り、筆界確認出来ない時に訴訟だけしか無かった選択の余地である
 「筆界特定制度」の新設や、公共基準点からの測量成果を求められる様になり、分筆登記は原則
 「全筆求積」で「残地分筆」は出来なくなり、合筆登記時権利証書紛失時の保証人制度の廃止
 (資格者代理人が保証する)、インターネットによる申請の開始による「登記識別情報通知書」の新設等便利
 になった事もありますが、残地求積の原則不可等、明確に公示する事を優先する余り融通が利かなくなって
 円滑な不動産取引を阻害しているのでは無いかと思われる箇所もあります。

 

 公図にも種類があります
     地租改正当時(明治6年位から)に作成された租税地図を「改租図」と言います。
   改租図は、野取絵図、字図、字限図、字切図、一筆限図絵図、談合図、ダンゴ図との呼ばれます。
   改租図の精度が良くなかった為、明治18年から4年間で再度作成された租税地図を「更正図」と言います。
   更正図は、地押調査図、分間図とも呼ばれています。場所によっては稀に更正図が無く改租図しか無い地域
   もあります。
   一般的に、改租図、更正図を合せて「公図」(旧土地台帳附属地図)と呼んでいます。
   その他は、戦災後に作成された地図や、土地区画整理法、耕地整理事業による地図、国土調査法による地籍図、
   法務局作成の地図等も新しいものは(座標の有る)地図、古く地図としては不適格なものは、地図に準ずる図面
   (公図)として法務局に備え付けられています。



 地積測量図の変換
   土地分筆登記、土地地積更正(変更)登記申請には「地積測量図」を添付します。
  土地分筆申告時代から地積測量図はありました。しかし一元化以前の税務署に土地台帳の分筆申告時に添付した
  地積測量図は法務局では保管されていません。 地積測量図は地積を担保する資料でしか無く、今の様に筆界点を
  現地で復元する資料として期待はされていなかった事もあると思います。
  一元化後地積測量図は法務局で永久に保管される事になった他、進化を遂げていく事になります。
  昭和37年の不登法施行細則の改正でそれまで「測量図ハ地積ノ測量ノ結果ヲ明確ニスルモノナルコトヲ要ス」と
  されていた測量図の取り扱いが、
  「測量図ハ方位、地番、隣地ノ地番並ニ地積及び求積ノ方法ヲ記載シタルモノナツコトヲ要ス」
  と改められました。その後昭和52年不登法施行細則の改正(昭和52年9月3日)によって、
  「地積ノ測量図ニハ土地ノ筆界ニ境界標アルトキハ之ヲ記載スベシ」と規定されました。
  更に平成5年7月29日不登法施行細則改正によって
  「土地ノ筆界ニ境界標アルトキハ之ヲ、境界標ナキトキハ適宜ノ筆界点ト近傍ノ恒久的ナル地物トノ位置関係ヲ
  記載スベシ」
  と更に現地での土地筆界線を明確にする為の改正がなされました。
  平成17年の改正で公共基準点からの測量が義務付けられましたので同じ土俵上での絶対座標を備え付けられ
  る事になりました。これにより全て世界測地系座標で管理出来そうなものですが、特に地積測量図作成時に
  測量した基準点以外から筆界点を座標復元すると誤差が場合によって相当にでますので、地積測量図には、
  基準点の記載も必要であり、測量時と同じ基準点から復元する事も当然必要ですが、それが適わない時もあり
  10cm幅ブロック塀の中の筆界線を出すには公共座標だけで管理するには充分とは言えません。
  現場が動かなかった場合は却って文字による記載の方が明確な時も有り、やはり誰の目にも見え易い堅固な
  境界標識と拡大図による引照点の記載、大災害時の為の公共基準点座標の3つどもえで管理するのが究極的な
  現地復元性を持った地積測量図になると思います。


不動産登記法

不動産登記法
日本国政府国章(準)
日本の法令
通称・略称 不登法
法令番号 平成16年6月18日法律第123号
効力 現行法
種類 民事法
主な内容 不動産登記手続に関する法律
関連法令 不動産登記令不動産登記規則土地家屋調査士法登記手数料令
条文リンク 総務省法令データ提供システム
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不動産登記法(ふどうさんとうきほう、平成16年6月18日法律第123号)は、不動産登記に関する手続を定めた法律である。当初は1899年明治32年)に明治32年2月24日法律第24号として制定され、従来の登記法(明治19年8月13日法律第1号)は廃止された。

2004年平成16年)に全部改正され、内容が一新された。平成17年の改正で筆界特定制度が新たに設けられている。

構成[編集]

外部リンク[編集]

総務省法令データ提供システム



シャウプ勧告

シャウプ使節団日本税制報告書(シャウプしせつだんにほんぜいせいほうこくしょ、:Report On Japanese Taxation By The Shoup Misson)、通称シャウプ勧告は、GHQの要請によって1949年に結成された、カール・シャウプを団長とする日本税制使節団(シャウプ使節団)による日本の税制に関する報告書。1949年8月27日付と1950年9月21日付の2つの報告書からなり、日本の戦後税制に大きな影響を与えた。

日本税制使節団(シャウプ使節団)[編集]

シャウプは、ヴィクリーとウォレンとともに1949年5月10日に来日し、「世界で最もすぐれた税制を日本に構築する」という理想に燃えて、同年8月26日に帰国するまでの4ヶ月弱の間に、政府、地方自治体の財政担当者、学者との懇談や、全国各地の視察を精力的にこなし、極めて短期間で膨大な報告書をまとめあげた。同使節団のメンバーは次の通りである。

  • カール・S・シャウプ:コロンビア大学商学部教授兼政治学部大学院教授(税制使節団長)
  • ウィリアム・ヴィックリー:コロンビア大学経済学部大学院教授(1996年ノーベル経済学賞受賞者)
  • ウィリアム・C・ウォレン:コロンビア大学法科大学院教授
  • ハワード・R・ボーエン:イリノイ大学商業・経営経済学部長
  • スタンレー・S・サリー:カリフォルニア大学法学部教授
  • ジェローム・B・コーエン:ニューヨーク市立単科大学経済学部教授
  • ローランド・F・ハットフィールド:セント・ポール収税庁、税制調査局長

内容[編集]

それまでの税制の問題点[編集]

報告書が指摘した、それまでの日本の税制の問題点は以下のようなものである。

  • 複雑な税制
    • 元々、日本の税制は直接税中心だったといえるが、戦中体制において戦費調達を目的として間接税の新設と強化が行われ、非常に多くの種類の間接税が課された。報告書では、「1946年において、約56%が直接税で、44%が間接税となっている。」としている。勧告では、これらの複雑な税を整理し、簡素化することを目的とした。
  • 運用上の不公平
    • 日本の税制は、その骨子の上では公平であるものの、運用上において不公平な点が多々ある、とした。

例えば、所得税については単位(同居親族)単位での合算申告制であるため、給与所得者が不当に有利になっているという。勧告では、これらの不公平な点を取り除くことに重点を置いた。

  • 地方自治体の財政力の弱さ
    • 報告書では、国税の比率が高く、地方自治体の歳出は国からの補助金に頼っている点を問題としている。

このため、中央政府による地方財源の統制が過大であり、地方自治体の独立性が阻まれている、とした。

  • 税務行政における問題
    • 所得税は申告納税であるが、高額所得者が合法的に税金を安くするような「抜け道」がいくつもあり、また帳簿等の不備による脱税も多かった。脱税は間接税や法人税においても多い、としている。

勧告は、これらの是正を目的とした。

税制改革の勧告[編集]

報告書で勧告している、税制改革の骨子は以下のようなものである。

  • 負担の公平性と資本価値の保全
  • 直接税中心主義
    • 所得税
      • 所得税は累進税率であったが、最高税率が高率すぎ、脱税の動機となりうることから、最高税率を引き下げ、全体として所得税は減税となるようにする。
      • 富裕層には、資産に対して別途富裕税を課す。
      • それまで非課税だった、有価証券譲渡益に課税する。
    • 法人税は、法人擬制説に則って、35%の比例税のみとする。
      • 法人は単に法的に擬制された存在であって、所得は株主や出資者のものである。法人税はこれらの者に対する所得税の前取りであるため、所得税の源泉徴収と同一視できる。二重課税は個人で排除すればよいため、税率も平均税率でよいこととした。
    • 贈与税相続税は、財閥等への富の集中を防ぐため、最高税率を高くすることとする。また、公益団体への寄付については免税とする。
    • 分離課税の排除
  • 間接税の整理
    • 間接税は、酒税関税等を除き、かなりを廃止する。
  • 地方自治の独立性の強化
    • 地方税源の拡充強化
    • 国からの交付金の一方的決定の排除
    • 国・地方自治体間の徴税と行政責任の明確化
    • 平衡交付金の設置
  • 税務行政の改善
    • 前年実績を基礎とする予定申告
    • 所得税申告書の簡易化
    • 個人課税への移行
    • 青色申告制度の導入
    • 高額所得者の所得金額公示制度(長者番付
    • 目標額制度の廃止

勧告とその後[編集]

日本政府は、勧告を元にして税制改革を行ったが、その過程で政治家の介入などにより、一部で勧告とは異なる税制となった。 このときに作られた税制の基本体系は現在でも大きくは変わっていない。

税制改革[編集]

シャウプ勧告を元にした税制改革は1951年に行われ、その後数年のうちに運用上の困難などを理由に一部で改廃が行われた。

直接税[編集]

  • 所得税
    • 基本的には勧告通りに行われたが、富裕税は運用上の困難から1953年に廃止され、所得税の最高税率を上げることで対応された。また、有価証券譲渡益課税も廃止された。
  • 法人税
    • これも基本的に勧告通りに行われたが、有価証券譲渡益課税の廃止などで個人所得税との関連性が失われた上、政策的に「租税特別措置」によって多くの減税が行われた。そのため、所得税に比べて法人税が有利となり、個人事業主の「法人成り」が増え、結果として税負担の不公平を招くこととなった。

間接税[編集]

間接税は、勧告の直接税中心主義に従って、ほぼ勧告通りとなった。その後、一部で間接税が新設されたが、いずれも大きなものではなく、1989年消費税が導入されるまで直接税中心主義は変わらなかった。

地方税制[編集]

シャウプ勧告は、地方財政の強化を大きな目的としていた。地方税法の提案が行われた1950年3月25日の衆議院地方行政委員会における説明によると、戦前の地方税は国税に対する付加税としての性格が強く、税金の種類は多いがいずれも税収は少なく、財政力が微弱であった。そこで、地方税収入を拡充し、地方税制の自主性を強化して、地方自治の根基をつちかうことを目標に、税制改正が提案された。その案によると、税の種類が減らされ、道府県税は附加価値税等を、市町村税は市町村民税固定資産税を中心に再編成される。同時に、財源の偏在を調整するために平衡交付金制度が設置された。このうち、附加価値税は地方税法に規定されたものの、導入が何回か延期され、実施されないまま規定が削除された。

このシャウプ勧告に基づく地方税制は、基本的な構成は現在まで継続しているものの、その後一部が変更され、平衡交付金は地方交付税に変えられ、国庫補助金制度で補助金の使途が国によって定められ、「三割自治」と呼ばれるように地方自治の独立性が失われたと言われている。その後長い間この状態が続き、地方自治の独立性の強化は、2001年小泉政権の誕生による「三位一体の改革」でようやく議論されることとなった。



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